( 5/15[木])鹿サポであるというプライド

今日はサポーターであるというプライドについて書きたい。と言うのは最近、どう柔軟に考えようと試みてもこう言うことを簡単に口にしてしまうのって「サポーターとしてのプライドはあるの?」と思わず訪ねたくなる場面が多々感じられるからだ。

まず、これだけは断っておきたいが、僕はミーハーな人をミーハーであると言うだけで差別する気はない。マナーを守っていないのであれば、それは問題であるが、ミーハーな人が必ずしも不作法な人であるとは限らない。つまり、ミーハーな応援スタンスである事を理由に批判するつもりはまったくない。

今回、最初の気になる点はサポーターとしてのプライドを知らない人も自分はサポーターであると思っている点である。これはサポーターという曖昧な定義の言葉にも問題を発しているのであるが、最近はサポーターを名のる、名のらない等というちっぽけな枠を超えてきた感がある。自分を鹿島サポーターだと名のる人は多数存在するのだが、そこにプライドを感じられない人が数多く内在するのではないかと分析した。

そういった人たちの典型的な行動パターンとして、自分の好みの選手にいともたやすく他チームの選手を(いい選手であると認めていると言う枠を乗り越えて)あげる、公の場所であっても他チーム選手を親しみを込めているかのように話す事があげられる。これらの事はおそらくは自分のチームへの忠誠心が薄い事から起こっているのではないかと思うのだが、最近、感じる感覚を分析していくとそもそも当の本人達には応援しているチームへの忠誠心、プライドなどと言う概念自体が存在していない可能性が高いように思う。おそらくはここに今回の問題の原因があるのかも知れない。

しかしながら、他チームに所属するいい選手を見つけることは確かにあるだろうし、そのプレーに惚れ込むこともあるかも知れない。ただこれが、その選手が同じ土俵で戦う敵である場合、その選手をどう感じるのか、実際に対戦するときにはどういう存在価値に定義するのか。この感じ方のギャップに僕は違和感を感じているのかも知れない。

ある特定のチームを応援する人間としてのプライド、そのチームへの忠誠心があるのであれば、良くも悪くも他チームの選手を手放しに誉めることはできないだろう。他チームにどんなにいい選手がいたところで、その選手が自分のチームの選手より優れていることは認めたくはない。これは確かに子供じみた考えであるのだが、それがサポーターの心理という物ではないのだろうか?逆に自分とは別のチームを応援している友人が自分のチームの選手を誉めてくれるようであれば「そう言うのも、まぁ、しょうがないよな、お前のチームには大した選手いないからな」ぐらいの皮肉も言いたくなる。

これが特定のチームに忠誠を誓った人間でなければ話はだいぶ変わってくるだろう。いい選手を見つければその選手を誉めるだろうし、つまらない選手であればユニホームの色に関わらず無視をすることができる。そこには何の違和感も感じられないし、サッカーファンという立場で何かを言うのであれば、そういうことはたぶんに見かける光景だろう。

何がサポーターで何がサポーターではないかという基準を定義することはそう簡単にはできないだろう。そのチームを応援する人はどんなひとであれ、みんなサポーターだと言う見方がある。それはもちろん間違いではないだろう。しかし、僕はチームへの忠誠心やプライドの感じられない人をサポーターとは呼びたくはない。自分のチームの選手が最高の選手だと常に言い放つ人、内心では他チームに認める選手がいようともそう簡単には口にしない人、ましてや、同じチームを応援する仲間が集まる場面では口にすることには恥ずかしさや情けなささえ感じてしまう人、そういう人たちの方がサポーターと呼ぶにふさわしいように思えてならない。